自転車のフォームは「型」か?

土曜は早朝ロード練をしています。青葉台を起点に、宮ヶ瀬を往復して約95km。ただダラダラと走っているように見えるかもしれませんが、いろいろと考えながら身体を動かしていたりします。
たとえばたいして練習していなくても速い人がいたり、毎週ガッツリと乗り込んでいるはずなのになかなか速くならない人がいますよね?
オイラ自身は年間走行距離が6,000kmぐらいですから、乗り込んでいる人に比べたらさして多いわけではなりませんが、それでもロングライドのイベントではボチボチのリザルトを残せていると自負しています。フォーム? 生まれ持った運動神経? そのあたりどうなの、ってことを真面目に考えてみました。
ちょっと話が飛びますが、歌舞伎や茶道といった伝統芸能では、「型」が重視されます。芸能だけでなく、大相撲や一部流派の空手などもそうですよね? それらはしばしば「稽古」という言葉とセットで使われます。古(いにしえ)を稽(かんがう)。「稽」は「考」でもあり、古人の教えに思いをはせて踏襲する、ということでしょうか。
それらには師範といわれる人がいて、修行中の人間は教えを請います。そして師範の一挙手一投足をひたすら模倣するわけですね。
一方で師範は、型を一通り覚えればなれるという存在ではありません。型の動きができた上で、それを消化して自分なりに表現できる、ということが大切なのだと思います。
ところが、多くのスポーツでは、おおざっぱな基本形こそあれ、「型」として厳格には決められていません。だから、たとえば野球でいえば野茂英雄や岡島秀樹のようなピッチャーがいる(いた)わけです。打者に対して背を向けてから投げたり、ボールをリリースする瞬間に下を向くという、素人目に見ても変則的なフォームが存在して世界で通用し得るんです。
自転車でもそうですが、基本こそあれそこから先は個性があってしかるべきだと考えます。とりわけ「速く上手く走れるようになりたい」という欲求が強い場合は特にです。だから1つの理論で「これが型です」と縛られたり、画一的に「この姿勢」で「このトレーニング」をして「筋トレはこのメニュー」をこなす……ということだと壁にぶつかってしまいます。
ではどのように自分のフォームやメニューを探せばいいのでしょう?
その答えの1つは、ガッツリ乗った後に見舞われる疲労感や筋肉痛などの痛みにあります。それが局所的に現れれば「しめた!」と思いましょう。
なぜ疲労感や痛みが現れるのか? それは、その部分にキャパシティーを越えた負荷が掛かっているからです。つまりその局所的な疲労や痛みをなくせれば、すなわち効率的で速い走りに向かうわけです。
そのための手法は大きく2つに大別できます。ひとつは「負荷を掛けない力のかけ方やフォームの習得」。もうひとつは「負荷に耐えられるよう弱い部分の強化」ということです。いずれの場合も、走っているときはもちろん走り終わった後、その翌日……どこの筋肉&関節をどのように使っていたかを意識することが大切なんです。
もちろんみな同じ「人間」という骨格を持っているわけですから、伝統芸能の「型」に相当する基本的フォームは存在していて、たとえばそれはボールを投げるときに、投げる手とは反対の足を前に踏み出す、というような事なのですが、その縛りは「型」に比べると縛りが緩いものだと思います。そして「型」を発展させられるかどうかは各個人自身に頼るところが大きいんですね。とりわけ脚を「円運動させる」という非日常的な動きを断続させて、しかも「自転車」という道具が介されているから、なおさらです。だから速く走ろうとすると考えることや課題が際限なく出てきますし、その分だけ面白いのだと思います。
つまり自転車で速く走るということは、「型」の踏襲にとどまらず、自分流の「師範」になる事なのだと思います。もちろんワタシ自身も自分流を今も探し続けています。土曜ロード練や火曜周回を走りながら。

関連記事

最近の記事 おすすめ記事
PAGE TOP